2013年6月10日月曜日

小話「ティガレックス」


 もう随分前から書きためている小説がある.正直なところ,最後まで書きすすめられるかはわからない.でも,久しぶりに眺めてみると,中々に出来が良い.

 ここから先は,エターなっても許してくれる方推奨.








 ティガレックス

 別称 轟竜

 種別 飛竜種

 原始的な風貌を残す飛竜。性格は至って凶暴で、発達した四肢を使っての突進、強力な爪と顎の一撃、どれも恐ろしい威力で注意が必要。獲物を求めて広い範囲を移動し、雪山でもポポを襲う姿が目撃されている。


 以上、MONSTER HUNTER PORTABLE 2nd『ティガレックスの書』より引用。





 一『グレゴール』





 黒く縁どられた世界の中で、セクメーア砂漠の地平線が揺らいでいる。動く生物など何もいない。砂のカンバスを走っているのは、塵旋風の子どもだけである。長い年月をかけて作り出された砂丘の群は、山脈や大河を思わせる。それは植物も川も無い殺風景な大地の見た夢なのだろうか。なんとも寂しい風景だった。

 グレゴールは双眼鏡から目を離し、額に滲みでた玉汗をぬぐった。頭上の太陽は白く輝き、強烈な暑さはやる気を根こそぎ奪っていく。
 乗用に訓練された草食竜アプケロスが声をあげる。いい加減日陰で休ませてくれ、とグレゴールに懇願しているように聞こえた。

「結局、今回もハズレになりそうね」

 たった一人の同行者、クレアが呟いた。彼女はとっくにターゲットを探し出すことを諦めており、アプケロスの手綱を握っている。グレゴールはもう一度双眼鏡に手をかけたようとしたが、結局止めた。畜生め。グレゴールは心中で毒づく。

 彼ら二人は今、セクメーア砂漠の南部の奥地にいた。この地域を調査できる期間は短い。寒冷期を過ぎると地獄のような猛暑が待っているためだ。次にこの砂漠へ戻ってこられるのは一年後になる。だからこそこの一ヶ月間、グレゴールは昼夜を問わずターゲットを探しまわった。
 だがそれも骨折り損にだったらしい。モンスターの調査に必要なのは、下調べと、根気と、なにより運だ。今回は巡り合わせが悪かった。グレゴールは悔しさを噛み殺す術を知っている。

「帰りますか。これ以上この地に留まっていては蒸し焼きになってしまう」

 クレアが口笛を吹いて、手綱を叩く。二人を乗せたアプケロスはその場で百八十度反転、北へと歩み始めた。

「まぁ来年もある。気楽にいこう」

 クレアはそう言ったが、グレゴールはとても気楽になれる気がしなかった。
 この調査はグレゴールにとってただの調査ではない。彼にとってこれは宿命なのだ。

 『砂漠に棲むドドブランゴがいる』

 その一言が彼の運命を決めた。誰が呟いたとも知れない噂話。それに食い付いたのがグレゴールの師、ヤマギワ博士だった。

 『ドドブランゴは乾燥地に十分適応できる生物である』

 当時ドドブランゴ研究の草分けだった博士はそう提唱し、このセクメーア砂漠の大規模調査にのりだした。砂獅子の存在を頑なに信じて。
 だがその説を信じたのは博士だけだった。本来雪山に生息するドドブランゴが、対極ともいえる環境の砂漠に棲んでいる。疑うなというほうが無理な話だ。弟子のグレゴールですらにわかに信じられない話だ。

 結局、博士に協力する者は一人また一人と消えていった。そして博士自身も長年のヘビィスモーカーがたたって肺病にかかり、この世を去った。虚しい最期だった。かつてドドブランゴ研究の草分けを担った男はその名誉を地に堕とし、膨大な資料と汚名とグレゴールとを残した去ったのだ。

 博士が今わの際に見ていた砂獅子は蜃気楼なのか、それとも実在するのか。それはグレゴールにはわからないし、じつのところさほど興味もなかった。グレゴールにとって大事なことは、この師の残した研究に決着をつけなければ、自分は前にも後ろにも進めないということだ。

 だが、クレアの事情はグレゴールのそれとは少し違っているはずだ。クレアはハンターだ。その背には重猟弩が折りたたまれており、時折見せる鋭い眼光は肉食獣のそれに似ている。年齢は既に四十を過ぎ、童顔のグレゴールと並んで歩くと親子と勘違いされるほどだ。クレアは普段ポッケ村と言う北の寒村に常駐しており、寒冷期になると調査に協力するためわざわざ砂漠まで足を運んでくれる。しかも完全なボランティアで。
 これはグレゴールにとって大変ありがたかった。ハンターズギルドも王立学術院もグレゴールへの協力を拒み、調査費は全て個人負担だったからだ。グレゴールの生活はいつも貧窮している。かといって護衛のハンターもつけず砂漠へと足を踏み入れるのは自殺行為だ。

 熟練のハンターであるクレアが、何故こうも自分の調査に協力してくれるのか。それはグレゴールにもよくわかっていない。クレア曰く、博士とは旧知の仲であるのだという。グレゴールも学徒時代に何度かクレアの姿は見かけていた。博士の調査協力という名目ではあったが、親しげに会話するその姿は親戚同士か親子のようだった。
 
 また――これは最近聞き知った話ではあるが――十年以上も前、クレアはドンドルマのハンター達からひどく小馬鹿にされていた時期があったのだという。

 『雪山でティガレックスと遭遇した』

 クレアは事実を正確に報告したはずだった。轟竜ティガレックス。当時まだその生態は謎に包まれており、砂漠の奥地で僅かに発見報告が上がる程度だった。ハンター達は奮ってその新モンスターの尻尾を掴もうとしたが、中々上手くいかなかった。
 そこに来て、雪山での発見報告である。しかも情報提供者は、誰とも知らぬ片田舎のハンターだ。ドンドルマのハンター達はクレアの報告を話題性目当てのホラだと決めつけたのだ。
 もっともその一年後、クレアは雪山においてティガレックスの討伐に成功。轟竜の死骸をもって身の潔白を証明したのではあるが。

 グレゴールが考えるに、クレアは似た境遇に陥っている博士を見捨てることができなかったのだろう。世間に罵られた者同士、通じるものがあったのかもしれない。



  *  *  *



「そういえばグレゴール君はこれからどうするの?」

 アプケロスに揺られての帰路、クレアが訪ねた。砂獅子の調査は寒冷期に限られているから、残りの期間は暇となる。グレゴールとしても頭の痛い問題だった。研究だけに没頭できる者はどれほど幸せなことか。

「先生が死んでからというもの、調査依頼や研究依頼がめっきり途絶えてしまいましたからねぇ。とりあえずツテで調査補助とか日雇いを紹介してもらって、調査費稼ぎの毎日ですよ」
「そりゃ御苦労。しかしグレゴール君ほどの学士を野放しにするとはもったいない」
「僕は先生の後ろについていっただけですから。学位でもとれればまた話は違うのでしょうが」
「とれていないん?」
「なにしろあの先生の弟子ですからねぇ。色々と厳しいんですよ」

 呆れた、とクレアは生ぬるい息を吐いて、王立学術院やハンターズギルドに憤慨しているようだった。彼女は砂獅子の存在を信じた博士を信じているのだろう。

「でもまっ、グレゴール君のような意思を継ぐ者がいて博士は幸せだろうね」

 グレゴールは思わず口を噤んでしまった。グレゴールの反応をわずかに訝しむクレアの視線が針のように突き刺さる。グレゴールとしては、厄介な置き土産を遺してくれた博士に怒りや憎しみ――呪詛に近い感情すら覚えている。自分はそんな立派な人間じゃあないのだ。
 だが自分がヤマギワ博士に後ろ暗い感情を抱いていることはクレアに知られたくなかった。クレアは博士を尊敬しているのだ。彼女の想いを踏みにじるのは、仮にも弟子であったもののすることではない。

「そうですね。私が生きているうちに、先生の汚名をそそぎたいものです」

 その意気ね。クレアが笑う。グレゴールもぎこちなく、口角をあげた。まったく息が詰まる話だった。

 二人を乗せたアプケロスはさらに北へと進んでいく。地図を開く。太陽の角度とコンパスを確認して現在地を測る。一番近い砂漠の集落に着くのは夜中になりそうだ。グレゴールはクレアと手綱を交代した。道中でモンスターの襲われないとは限らない。もしものときはクレアの重猟弩だけが頼りだ。

「安全確認よぉし」

 双眼鏡から眼を離し、周囲の索敵していたクレアが気の抜けた声を出した。

「しかしこうも安全だと、ハンターとしては退屈でしょう」
「別にぃ。非番なのにモンスターとの戦闘なんて願い下げだね」
「ふーん。クレアさんはあんまりモンスターに興味ないんですか?素材とか、戦いとか。狩りそのものがハンターの目的だ、とか豪語する人もいますが」
「まぁ私も若いころは、ね。でも今はそんな感じじゃないね」
「じゃあ今のクレアさんにとってハンターの醍醐味というか、やりがいはなんなんでしょうか?」

 僅かにクレアの表情が曇った気がした。

「そりゃ、私は村付きのハンターだから。村人の笑顔を守るのが、生きがいだよ」

 では何故、その守るべき村人を放っておいてこんな砂漠くんだりまで?
 グレゴールの脳裏にそんな疑問がよぎったが、口から出ることは無かった。
 僅かに重い沈黙を乗せたアプケロスは、気ままな速度で砂漠の砂を踏み進んでいった。暮れていく赤い太陽は二人と一頭に長い影を落とす。影はひどく孤独だった。

 いかほど時間が経ったかは憶えていない。ふがっ、ふがっ、とアプケロスが鼻に詰まった砂を噴きだす。グレゴールが痛む尻を適当にかく。クレアが中折れ式の重弩を真っ直ぐに組んだ。顔つきを一様に険しくして。そこに人当たりの良さそうないつもの笑顔はなく、弾かれたように索敵し始める。

「モンスターですか?」

 グレゴールが声を抑えて問う。クレアは厳しい表情を崩さぬまま、双眼鏡を忙しなく動かし、やがてただ一点で止まった。

「ティガレックスだ。三頭,飛行している」

 そこでようやくグレゴールもティガレックスの姿を視認した。青い空に浮かぶシミのような三つの点。それは次第に大きくなっている。

「こっちに向かってきている?!」

 もし三頭ものティガレックスに襲われれば命はないだろう。すぐさま隠れてやり過ごさなければ。だが四方を見渡してみても身を隠せそうな場所は無い。此処は砂漠なのだ。
 困惑するグレゴールを余所に、クレアはスコープを覗きこんだまま動かない。戦闘準備をするとか、まして逃げようだとか、そんな気配は全くなかった。むしろ興奮気味にスコープに食らいついているような気さえする。

「心配しないで、グレゴール君。それよりアプケロスが暴走しないよう、しっかりと手綱を握って」
「何を悠長なっ」
「その時が来たら、責任はもつよ」 

 そんな無茶な。声にはだせなかった。今この場でティガレックスに対抗できるのはクレア一人だ。グレゴールに命令権はない。ただ言われた通り、アプケロスの手綱を握ることしかできなかった。

 やがて、はっきりと視認できる程ティガレックスが近づいてきていた。両前脚を大きく広げて高空を滑空する姿は、鳥のそれとは全く違う。身軽さや優雅さをことごとく嘲笑うような、力強さだけがあった。

 さすがにこの距離ではすでに見つかっているだろう。降りてくるなよ。祈るような気持ちでグレゴールはアプケロスと共に怯え震えた。

 風を切る不気味な音。上空を横切る、三頭のティガレックス。それはグレゴールに影を落としながら、そのまま北へと飛んで行ってしまった。その巨大な背を見送りながら、グレゴールは安堵の息を漏らした。見逃されたのか。

 ――いや。

「……渡り?」
「正解」

 クレアはじんわりと口角をあげ、ただティガレックスの背を追うばかりだ。
 やがて完全にティガレックス達の姿が見えなくなると、今度は地図とコンパスを取り出し、線を引き始めた。どうやらティガレックス達の行先を推定しているらしい。この拡大された地図ではその線の先にどの地方があるかはわからない。ただ、なんとなく察しだけはついていた。

「フラヒヤですか?」
「多分ね」
「ティガレックスが出没するという話は知っていますが、移動の瞬間をこの目で見れるとは思いませんでした」
「ツイていたね」

 クレアは無邪気に笑っていた。グレゴールは未だに激しく動悸する心臓を抑え、二、三深呼吸する。そしてようやく、事態を咀嚼しはじめた。

 雪山でのティガレックスの第一発見者が、砂漠調査への同行を希望し、帰路でティガレックスの渡りを目撃した。こんな偶然があるのだろうか。

「……ティガレックスがお好きで?」
「どうだろうか。嫌いではないけれど」
「すくなくとも、砂獅子の発見が第一目的ではなかったのですね」

 クレアはバツが悪そうに顔を歪めた後、顎に手を添え少々考え込んでいた。説明する言葉を探している、あるいは説明する意義を量っているように見えた。彼女は一体何を知っているのだろうか。

「まぁさ、素人なりに、思う所もあるわけなのよ」

 クレアが手綱を叩くと、怯えていたアプケロスが再び北へと歩きはじめる。ティガレックスと遭遇した恐怖からか、その歩みは速い。集落には着くのが少々早まるだろう。



  *  *  *



 太陽が砂漠の地平線に沈んでいく。砂漠の季節は一日で巡る。真夏の昼から真冬の夜。渇いた世界に春と秋は訪れない。グレゴールは外套を羽織り、ホットドリンクを口にして寒さに備える。

 帰路の中で先程の説明を求めたグレゴールに対し、クレアは苦い顔でポツリポツリと語りはじめた。

 クレアがティガレックスの追うようになってから、もう十年以上も経つのだという。それだけにとどまらず、クレアはティガレックスに関してじつに多くの知識と、それから導き出される考察を持ち合わせている。グレゴールは驚きを隠せなかった。

 雪山と砂漠を往復するとされる広い行動範囲に加えて、圧倒的な強さと凶暴性。その危険性からティガレックスの研究を進んでしようとする者は僅かであり、その生態は現在でも謎が多い。十年にもわたる観測データなど、ハンターズギルドや王立学術院としては喉から手が出るほどの欲しているものだろう。
 だがそのデータが学会に回ったことはない。クレアはこれほどの成果を秘匿しているのだ。
 また、それを語るクレアの表情たるやどうだ。往々にして研究者は自分の研究に対して誇りを持っており、多弁にして饒舌である。熱に満ちていると言ってもよい。しかしクレアのそれはまるで罪人の懺悔のようだった。グレゴールの積極的な質問にも、クレアは口を濁して中々答えようとしない。

 何故クレアがティガレックスを追っているのか、ティガレックスのなにが彼を魅せたのか。クレアは一言、カッコ良かったからとはぐらかした。

「それにしても驚きましたよ。王立学術院に提出すれば学位が授けられるんじゃないですかね。あそこのデスクワーカー達は狂喜しますよ」
「よして頂戴。そんな理由で追ってるわけじゃないし、別に金にも困っていない。ただの趣味だよ」
「それは僕に対する嫌味ですかね。クレアさん」

 グレゴールの本心ではなかった。しかし、グレゴールの学位を授かれないが故の苦労を案じてか,クレアは明らかに狼狽した。

「そんなつもりで言ったわけじゃない。そういう風に聞こえたなら、謝るよ」
「では何故世間に公表しないのでしょうか?」

 クレアは難しい顔で唸る。いつもの余裕に満ちた笑いはそこになく、グレゴールの知らないクレアの一面が浮かびあがろうとしている。グレゴールは目を細めた。
 竜をも殺す好奇心。すべからく人類の地位を押し上げたものでもあり、とんだ悪癖でもある。
 クレアが顔をあげた。目がすわっている。とうとう刀を抜いてくるか。グレゴールはごくりと喉を鳴らす。

「君は人間をどこまで信じる」

 その問いは想像の斜め上を行くものだった。思わず素っ頓狂な声をあげて聞き返してしまった。

「知識というものは手放した瞬間から一人歩きをし始める。それゆえに発信者の責任は無限にして重大だ」

 なるほど。グレゴールにはクレアの主張の終着地点が読めた気がした。おそらく、彼女は恐れているのだ。

「世を出た知識が自分の願った使い方されるとは限らない。学士の君ならわかるだろう。モンスターの生態研究にしてもそうだ。ハンターがモンスターを狩るようになれたのは技術の発達もあるが、それ以上にモンスターの習性や生態を深く知るようになったところが大きい。ココットの英雄はモノブロスを狩るのに七日間にも及んだそうだが、今では一日とかからない。それはハンターズギルドのバックアップと、ジョン・アーサー博士の功績によるところだよ」

 まくしたてるように語り、クレアは一呼吸おいた。それから彼女は背中の重猟弩を優しく撫でた。巨大な竜の頭部をそのまま切り出して作られたそれは、レックスハウルと呼ばれるティガレックスの素材由来の重猟弩だ。彼女のそれには丁度竜頭の頬部分に葵紋が刻み込まれており、彼女の得物に対する愛着が読み取れた。
 この弩の一部となったティガレックスとクレアとの間にどのような闘いがあったのか。学士にすぎないグレゴールにはわからない。

「私は信用できない。彼らが求める真実とは、自分にとって都合の良い真実だ。ハンターだからわかることもある。例えば、私はリオレウスを良く知っている。どれほどのスピードか、どれほどの滞空が可能か、あと何発火を吐いたら地上に降りてくるか、どのようなテリトリーを形成し、腹が減ったら食らう獲物、営巣する場所、寝るタイミング……これらは私の経験もあるけど、先輩の知恵や勉強によって身に付けたものだ。学士の研究によってわかったものもある。だが私は学士や先輩が何を以ってそれを知り、何を願ってそれを伝えたのかは知らない。知ろうとも思わなかった。私が欲したのは結果だけだ。おそらく多くの人にとってもそうだろう」

 クレアは言葉を区切り、グレゴールの意見を仰いだ。喉が渇く。グレゴールは今、試されているのだ。

「貴方は自分の知識が他人に悪用されることを恐れているのですか?」
「世の中には知らない方が、知らせない方が善いこともあるってこと。特に人間の悪の部分に身を委ねているような奴に与える知識は、そのまま凶器になってしまう」

 クレアは自嘲気味に笑っていた。楽観主義者かと思ったら、とんだ虚無主義者だ。グレゴールにとって、彼女は歪な形で冷え固まってしまった鋼のように思えた。

「しかし貴方が公表しなくても、いずれ何者かが公表しますよ。知識は独占できるものではないし、人の好奇心は抑えられるものでもありません」
「そうなんだよね。だから悩んでんのさ」

 クレアが頭をボリボリと掻く。抜け道のない迷宮に迷い込み、ずっと出口を探している。心底苦いその表情は現状への不満がしっかりと浮かび上がっていた。
 しかしグレゴールの頭の中は今、不思議な感覚に満ち溢れていた。何故だろう。言葉が止まらない。

「真実を穿った使い方をしようとする輩がいるのはわかります。だがこのまま闇に葬ろうとすれば、それは貴方の願いも殺すことになる」

 自分はこの鋼の溶かし方を知っている。誰かが勝手にグレゴールの口を動かしているかのようだ。

「どういうこと?」
「貴方が亡きあと、貴方と同じ結論に至ったものが貴方と同じ考えとは限らない。貴方のように知識の悪用に心を痛めているかはわからないということです。そして、後世のためになる発信者とは、心を痛める者と痛めぬ者の、どちらなのでしょうか?」

 クレアが小さく、弱々しく唸った。

「悪用を危惧するものにこそ、発信する資格と義務があると?損な役回りじゃないか。だいたい危惧したところで受け取り側に何が伝わる?」
「貴方は自分の知識を悪用されることを決して許さないでしょう」
「目が黒いうちはね。でも私の目は世界のすべてには届かないし、いずれ死ぬ」
「だからこそ、貴方は発信しなければならない。そして探すのです。貴方の考えに共感し、意思を継ぐ者を。この世界にはごまんといますよ」

 クレアの眉が跳ねる。聡明な彼女は何を掴んだのだ。しかし、その掴んだものの曖昧さに戸惑っているようにも見えた。

「そんな立派な人物が見つかるものかね」
「僕もその一人だ。先人達の知識の悪用は許さない」
「君が?」
「そうです。もし貴方が思いごと知識を墓まで持っていけば、貴方の意思を継ぐことはできなくなってしまいます。人間の寿命は短い。だからこそ、後世に意思を遺すことが大切なんです。少なくとも僕はそう信じています」

 グレゴールはそこまで言って一息つく。クレアは驚きをもって聞いていたようだ。この数分間で、彼女の見る目が明らかに変わっている。そしてクレアは、頭を深々と下げた。

「謝らせてくれ、グレゴール君。君がそこまで考えてるなんて、正直考えてなかった。まるで博士に諭されたみたいだ」

 彼女の言葉にグレゴール自身も、さっきからの不思議な感覚に合点がいった。
 そうだ、この答えは自分が博士から受け継いだ答えなんだ。かつて先生と仰いだものの意思は、きちんと自分の中で受け継がれている。そう思うと、少しだけ博士への黒い感情が晴れた気がした。

 そうして、クレアはしばらく考え込んでいた。考え込んで、考え込んで、そしてようやく顔をあげた。ぎこちない、今にも崩れそうなものではあったが、表情は笑顔だった。

「そうだねぇ。思い切って発表してみるかな。ほんとのこと言うと、博士を否定した学士達はあんまり信用できてなかったんだけど、グレゴール君が生きてるうちは大丈夫な気がしてきたよ」
「買いかぶり過ぎですよ。でも発表する気になってくれるなら嬉しいですね。歴史がうごくかもしれませんよ」
「そんな大仰なものじゃないよ、まったく。でもとりあえず帰ったら纏めてみる。送り先は君のとこでいい?」
「いえ、せっかくなので、このままポッケ村までお伴させてもらいますよ」

 クレアは目をしぱしぱと瞬かせ。

「いやいやいや!ポッケ村遠いから!大変だから!掃除とか全然してないから!」

 手を左右に振って拒む様は、塵旋風でも巻き起こせそうなほどだ。普段は大人びたクレアだが、こういうところはまだまだ初心なようだった。

「すみませんが、引き下がれません。口約束というのは、監視するものがいないと履行されないものですよ。博士もそうでした」
「でも、でもぉ」
「こういうのはやる気がある内が華なのです。僕もティガレックスのデータを世に出すという大任の片棒を担いだわけですから」

 結局三十分にも渡る説得の末、グレゴールのポッケ村行きは決定し、二人の調査は幕を閉じた。

 帰り道の中、クレアは少し気恥ずかしそうにうつむいていたが、その表情からは陰鬱な影が去っている気がした。

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